左様ならば。
新譜リリースのタイミングと重なったこともあり、ごく少数の親しい友人や仕事仲間以外には話しませんでしたが、ここでもよく話題として触れ、気に掛けて下さる方も沢山いらしたので、本日忌明けに際しご報告に参りました。
夏に、最愛の祖母を亡くしました。
曾祖母と祖母が女手ひとつで守り抜いた、祖母の望んだ自宅の、かつては宴会場だった部屋で、介護ヘルパーさんの協力を得ながら一人で介護を続けた父の見守る中、眠るように静かに息を引き取ったそうです。
わたしが祖母に会うために帰省した、わずか十日程後のことでした。
わたしが東京に戻ってからは一切の水も食事も拒否して口にしなくなり、まるで自らその時を知っているかのように亡くなったと聞きました。病院や施設を勧められることも多々ありましたが、今、この時代に、自宅で天寿を全う出来たことを、きっと祖母は喜んでくれている…と思いたいです。
お化粧が大嫌いだった祖母は、わたしがメイクする姿を鏡越しに面白そうに眺めるのが好きで、
「お化粧って面白いわね。おばあちゃんは嫌いだからしないけど、お化粧するのを見るのは好きよ。」
と、じっと覗き込んではよく笑っていたけど、お化粧大嫌いな上にへたくそだった祖母に死化粧を施しながら、今度はわたしが
「おばあちゃん、ちゃんとお化粧してたらきっともっとモテたのに!」
って笑う番。
薄くほお紅を乗せた祖母はまるで眠っているように安らかな表情で、その顔は年を重ねる毎に美しく、こんな風に年を取れたらいいなと思う可愛いおばあちゃんでした。
父子家庭で育ったわたしにとって父方の祖母は育ての母でした。
若いお母さんのようにイマドキのことは何ひとつ分からなかったけど、子供の頃にはそれで苦労したことも色々あったけど、料理も、裁縫も、通り一遍の作法も、人が人と交わり生きて行くということも、教えてくれたのは祖母でした。
祖母はずっと、自分が産みの母ではない、本当の母親にはなれないんだということをもどかしく思っていたようですが、わたしにとって彼女は母です。
十年程前から少しずつ認知症の症状が出始め、この数年は完全自宅介護の生活でしたが、緩やかにその時を覚悟する数年でもありました。
まだらボケが始まる頃まで書き続けていた祖母の日記には、
『(かつて祖母が営んでいた料亭の)鍋を食べたいと云ふから
(昔馴染みのお客さんの)家へ鍋を持っていつたら喜んで食べてくれたよ。
一人で淋しいのでなかなか離してくれない。
気の毒だつたが用事があるからと言つて帰つてきたよ。
私もあんなになるのかと心が痛んだよ。
気を張つて暮し乍ら皆さんに可愛がられるおばあちゃんにならないといかないね。
今は生きてるんだから精一杯皆に喜んでむらえる人になりたいなおばあちゃん。』
と書かれていました。
おばあちゃん。
おばあちゃんのお葬式にはね、昔のお客さんやおばあちゃんのお友達はみんなもう一足先に天国だから来られなかったけど、わたしが知らない間におばあちゃんがあれこれ色々世話焼きしてたたくさんの人たちが来てくれて、「お世話になった」とか「綺麗な人だった」とか「かわいいおばあちゃんだった」って言ってたよ。
どんなにしても、必ず、その時が来れば後悔するのだから、時間やお金と相談しなきゃいけない事情はあれど会えるだけ会おう、話せるだけ話そうと決めた数年。それでもやはり後悔は尽きません。
最後の会話は、もう誰のことも判別できず、まともな会話どころか言葉を発することも侭ならず、起き上がることも食事も、水分補給さえ困難になっていた祖母に、毎日数時間一方通行の会話をして、何か言いたげなら分からなくても頷いて、寄り添い、“最後かも知れない…”と思いながら共に時間を過ごしていた盆の帰省時。
わたしの帰り際に一瞬、まるでピタっとチャンネルが合ったかのように、
惚けていた顔が引き締まり、
しっかりと焦点の合った瞳でわたしを見つめ、
動けないなりに居住まいを直して
はっきりとした口調で、
「いつ帰るの?」
と、祖母が聞いた、それが最後になりました。
祖母は気ぃ遣いーの気丈な人だったから、まだ祖母が元気だった頃には、貧乏過ぎて笑うしかないような生活を送りながら盆や正月に無理をして帰省しようとするわたしはピシャリと「帰って来なくて良い」と言われていましたが(日記には「会えなくて寂しい」「会いたい」って書かれてたけどね)、認知症が進行してからは「会いたい」「寂しい」「いつ帰って来るの?」「もう少し居られないの?」「一緒に暮らしたい」と駄々をこねて泣いてはわたしをよく困らせました。
気難しく寄った眉間の皺は認知症の進行と共に薄くなり、子供のように駄々をこねる祖母の姿を見ながら、本当はこんな風にいっぱい我が侭を言いたかったんだろうに、ずっと我慢しながら生きて来たんだなぁと切なくなりながら、わたしは彼女に自分の姿を重ねるのです。
『お姉ちゃんは神経質で頭の廻るよく働く人だから無理しないように』
と綴られた日記を読みながら、それはおばあちゃんに似たからだよ、と、苦笑いするのです。
こんな短い文章ではとても綴れない程、濃く壮絶な人生を歩んだ女性でした。わたしの生家は祖母の代までいわゆる花柳界のお仕事を生業としていたので、一般倫理的には良しとされない人生だったかも知れないけど、女のわたしにはその姿がとても逞しく、そして格好良く潔い、大和撫子に見えるのです。
大和撫子がただ清楚で慎ましやかで一歩引いて男性を立てる甲斐甲斐しい女性なんて嘘。凛として芯が強く、一本筋をきちんと通し、腹を据えたら最後まで貫き通す、慎ましやかだけど必要があらば自分が悪者になってでもきちんと言うべきことを言う、そういう強さを持った女性だから大和撫子なんだよ。
動物好きで世話焼きだったおばあちゃん。肉体はいつか土に還るもの。左様ならば仕方ありません。今はその入れ物を脱いで、先に旅立った、あなたの愛したたくさんの人たちと、たくさんの動物たちと、わたしにはまだ見ることの叶わない世界できっと酒盛りしながら笑っているのだと思わせて下さい。
ああ、一言、
一度で良いから、言えばよかった。
「おかあさん」って。
おばあちゃんは、お母さんだよ、って。
わたしが分かり易く「音楽をやってます」って、一般的に(実際にはそうでなくても)成功しているように見せる為には、分かり易いメディアに出ること。
そういう方面を目指すことが一番の親孝行と分かっていながら、そういう売り出し方やお話を若い頃には何度かいただいていながらそれを選ばなかったことを、わたしは後悔していないけど、やっぱり祖母はとても心配していたようで、祖母の日記や、わたしに届くことのなかった手紙を読み返しながら「ごめんね」って呟きつつ、誕生日を迎えてまたひとつ年を重ねてしまった売れない歌うたいです。
未だ手探りしながら、でも、今立っている二本の足をみつめて、立ち止まってはいけないんだ、と、改めて思った次第です。薄ら細くとも、一本決めた筋があるのだから。無名のままで在っても、わたしが何時か旅立つ日に、わたしの声を思い出してくれる人が居ることを願いつつ。
わたしは祖母のように強くないから、くよくよ悩んで迷って不安になっては落ち込んだり立ち止まったりするんだろうけど。
今まで祖母を案じて下さった皆様、介護情報を下さった皆様に、心から感謝申し上げます。父も大変喜んでおりました。長くなってしまいましたが、以上をもちましてご報告とさせていただきます。最後までお読みいただきありがとうございました。
おばあちゃん、可愛いくてだいすき!
miyo